家族形態やライフスタイル、時代と共に変わっていく伝統や風習。
それって、今までの歴史中で考えても分かるけど
変わって行く事って当たり前の事だし、仕方のない事。
昔からこうだった。
前回はこうだった。
家のやり方はこうじゃなければ。
って、無理に固執しても『今』にそぐわなかったり
体面や形式の為だけの儀式になって
一番大切なはずの気持ちの部分が置き去りにされて本末転倒なんて事に。
今回、友人からの相談をベースに『家族だけで新盆』のお話をしてみます。
▼ピックアップ▼
新盆は家族だけで簡単に済まそうと思ってるけど…どう思う?
つい最近まで葬祭業に携わっていたので、友人知人から葬祭事の相談が時々あります。
時期的に?なのかな。
友人からこんな電話がありました。
お葬式も小さかったでしょ?
お坊さんも呼ばないで家族で気持ちだけのお盆を迎えようかと思って。
お葬式だって、その時だけ頼んだお寺様だったもんね。
普段からお付き合いのない気まずい親戚を呼んで体裁だけの形式だけの新盆しても意味ないと思うよ。
本当にそう思うんです。
時代と共に物事は変わって行きます。
何事もずっと同じはありえません。
【摩訶般若波羅密多心経】というお経の中にも『諸行無常』という一説があるほどです。
友人も、わたしに聞く時点で『簡略化』する事に一種の後ろめたさみたいなものがあるのかな?と感じて
『体裁や形式だけの事をしても』と伝えたわけです。
葬儀のお仕事をしながら
遺族の意向とは反する親戚の横やりや
高圧的なお寺様の言い分などに気を使い過ぎて
本来の故人を【おくる】という気持ちが置き去りになってしまった葬儀や法要を何度も見てきました。
形だけを気にして、変わってはいけないはずの気持ちの部分が変ってしまう矛盾が生じてしまうケースです。
少し重いお話になってしまいましたが
こんな事になるくらいなら、可能な限り、その家ごとのやり方にシフトチェンジしていく事は
全然いけない事ではない。
と思っているので友人にもそう伝えました。
何か語り足りなくて、ちょびっとダークに書いてみた
盆提灯は一対って、なんでいわれてるの?『一般的には』を覆す話
盆提灯って必要かな?簡素にするとしても?
なんで、提灯飾るんだっけ?
帰って来るとか本当かな?と思う反面、全く信じられないとも思えないんだよね。
来るときに迷って、そのまま戻れなくなっても困るからね(;’∀’)
用意しようかな..
よく、お提灯代としてお金で貰ったりもするけど
貰うからには、どちらにしても家族だけの新盆ってわけにいかなくなっちゃわない?
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もらったらどうする?それも、コレ一対とか飾れる?
やはり、自分達の思いがあったり、こだわりがある場合は
自分で選んで購入する方が、余計なきも使わず気兼ねなく用意できるのかな?と思います。
盆提灯のおすすめってどんなのがある?
わたしがいた所の展示会では、あんな感じなのばっかりだったけどね。
家紋が入るか入らないか。
柄があるかないか。
あと、足の木や張りの部分の材質の違いとかくらいで大した代わり映えのないラインナップ。
あとは、吊り下げタイプとかね。
だいたい、みんな家紋入れてたな~
今の流行りと言えば流行りだったね。家紋入り。
マンションだから、そんなにスペースないし
できれば、あまりにもコテコテの盆提灯じゃない方がいいな~
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別に一対じゃなくてもいいしね。
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そもそも、なぜ提灯を一対で飾るのか?
仏教の教えの中で『中道』というものがあり
この『中道』の教えから寺院やお仏壇も左右対称に作られています。
仏具なども基本一対で左右対称が基本。
提灯も仏具の一種ですから、一対が正式な飾り方となるでしょう。
じゃあ…
『中道とはなんぞや?』
となると、解釈の仕方で色々な言われ方をしていてなかなか奥深すぎて
わたしなどには到底、説明どころか理解さえ難しいんですけど。
これを読む限り
結論的には
要するに「中道」を生きるとは、「仏の心を持って俗世を生きること」である。できるだけ「仏の心・仏の智慧に近づいて生きようとすること」である。そうすれば自らの心が安定し、行き過ぎた方向を修正しようと思うだろう。そして文明の発展や世界の進歩発展とはどういうものか、人類の本当の進歩向上とはどういうものかということを考え始めるだろう。人類が最高に進化した姿、大乗仏教ではそれを「菩薩」と呼び、人類の理想像としたのである。
って事になるらしく、記事の中でも紆余曲折ありながら、『形や形式』ありきでの『人の生き方』ではなく
『人の生き方』があっての『形や形式』
って事でいいんじゃないかな??と凡人のわたしは思うわけです。
「中道」とは、人間の営みの中で、「本当は何が正しいことか」と常に仏に問いかけることである。在家は修行僧のような清貧でストイックな生き方をする必要はないが、かといって移ろいやすい俗世の価値観だけを行動の原理にすることでもない。仏の世界と人間の世界の双方が同時に視野に収まった、いわば中間の道を生きることが肝要なのではないか。これが『至要之道』(肝心かなめの道)なのではないだろうか。仏の声を聞きながら娑婆を生きる。こういう生き方を説いたのが「中道」であろうと思われる。
↑という事を視覚的に表すために寺院はシンメトリーを基本に作られ
その寺院のミニチュア版を各家庭でも!って事でお仏壇があるわけですね。
ただ、形を気にするあまり住まいにそぐわない物を無理に購入しろと
仏の声はおっしゃらないんじゃないのかな??
なんてね。
こじつけっぽいですが…思うわけです。
新盆は簡単に家族だけでも盆提灯は必要?の場合のおすすめは?のまとめ
今回、友達は『迷われては困る!!』とお盆に提灯を飾る事にし
少し、変わり種の提灯にしたいのと
やはり、家族だけでこじんまりとしたいと言う思いがあるので
自分達で購入する事にしたようです。
よく言われる言葉で
「人間は二度死ぬ、肉体が滅びたときと、人々に忘れ去られたとき」
というのがありますね。
よくお寺様も『思い出してあげる事も供養の一つだ』とおっしゃいます。
お盆を迎えるにあたって色々と考えて検討するのも、亡くなった祖先に思いをはせる行為です。
その家その家。個人個人で事情も考え方も様々です。
こちらに一般的な提灯の事
そして、一般的なお盆の段取りも書いてみました。
こちらも参考にしながら、あなたの家に合ったお盆の迎え方を考えてみてくださいね。
新盆じゃないな?今年は…って方は
を参考にしてみて下さい。